多感作用、誰が為に共感はあるのか?

とりとめのない日記のようなもの

クィア文学の萌芽(九鬼周造著『時間論』によせて)

輪廻は一般に因果律、すなわち原因と結果の連鎖に支配され、

また輪廻とは

時間概念、無際限の再生、医師の永遠の反復、時間の終わりなき回帰

とある、そして仏教は輪廻の概念において

内的諸相、つまり醸成されていくものが、次の諸相を形成し、来世において「顕現」すると言えるのである。分かりやすく言えば、ある女が、男に生まれ変わるとすれば彼女の内的諸相は男としての在り様であったということである。

業、つまり所行と道徳的応報の観念、の内に同一性の概念が必然的に含まれているとある。業とは同一性を目指し、同一性に帰着するとある。

 深遠な抽象とは、私が考えるに醸成されてできた自我の中のいっとう大事な上澄みであり、それが、私を構成する何かであるということなのだろう。上澄みではあるが、存在としては澱のようなものであり、私を構成する液体の中で、ふわふわとただ存在するのみである。

「液体の中に存在する澱」

つまりは、日々の暮らしの中で、感じずには居られない違和感、余所余所しさ、異邦人にでもなったかのような気分…

集団の中に居るとき、誰かと話をしている時、ふと、一人になった時、私は自分のことをひどく「奇妙な」ものとして捉えることがある。

それが性別違和でないことは確かであるが、確かに自分がこのコミュニティに存在すべきではないという実感を伴った感覚はついぞ消えることは無いだろう。

私は絶えず流浪することを欲し、行き着くべき場所がここではないと思う限りに於いて。

2013年5月回顧録(一部改変、「春によせて」)

 道端に咲いている花に気付き、思わず足を止めじっと観察してみる。

 どうやらタンポポのようだ。アスファルトから覘くその姿はどこか可憐でいても力強い息吹を確かに感じさせる。ふと、昔テレビなどでよく耳にしていた「アスファルトに咲く花のように」という旋律が歌詞に乗せて頭の中で音楽となって鳴り響く、そしてふとある事を思い出してノートの端くれに覚書として留めていた言葉に目をやる「散って末枯れたタンポポの瓦のすきにだあまって、春の来るまで隠れてる、強いその根は目に見えぬ」という金子みすゞの詩を眺めながら、ああ、暗がりに隠れていたそのタンポポは春の訪れをじっと静かに待っていたのだ、そうだ、春が来たのだと思うに至るのである。

 季節は望む望まないに関係なく時が過ぎればやがてやって来るものではあるが、冬から春への移り変わりは、特に切り替わりや節目といった、時間の流れとは異なる切れ目を実感するのである。そうしていくうちにふと喪った年月を思う、やがて来るこれからのことに期待を膨らませる、何せ季節は春である。芽吹く季節、陽光に照らされた蕾がいまかいまかと花開く時を待っている、そんな時期なのである。心踊らずにはいられない。

 本を読むという行為もそれ似ているように思う。とある本が目にとまりそして手に取る、ページを開けば言葉が並んでいる。読んでいくうちに作者が語りかけてくるのである、その時代、その時の情景に神経を研ぎ澄ませて、作者は何を考えてこの文章を書くに至ったのだろうか、

「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」

 じっと目を瞑ってしばらくの間思案する。詩は短いながらも言葉のそれ自体がもつ神秘性、生じた奥深さを昇華させたものであり言葉の意味や音韻の繋がりや意味の重なり、対比などを味わう事が出来る。私が思うにこの詩は目で知覚することの出来ないものに対するある種の畏怖と憧れが綯い交ぜになって、そうしてようやく見えぬものでも確かに存在するものはあるのだという実感と愛情にも似た感情を覚えるのだ。

 そして私はそれらの物に対する興味は尽きないとも思うのである。それは空を仰いでようやっと見える星でも、道端に咲くタンポポでも同じなのである。たった十数行の言葉でこのことに気付かせてくれる、それが詩の力である。言葉には空間の隔たりを越える力がある。見えないものでも言葉にして「見え」てしまう「感じ」取ることを可能にしてしまう。

 例えば漫画における擬音の表現というのあげられる。またある物とある物を対比させる事によって存在しない筈の空間的な(意味的ともいえる)隔たりを生じさせることもできるのである。

 例えば、階級という概念はある人とある人を空間的に完全に分離させてしまい、また階級と言う概念が作る言葉によって分類され、時に対比する事が可能になるのである。

 さて、本を読むという事はその言語を理解していることが必要である事は言うまでもない。ただ理解して読むということを考えた時にそれが通用しない本がある。意味を味わうことで自分の知識の血肉となるもの、それこそ自分が取り組まなくてはならない本である

つまりは、より一層の精読が必要となる本である。言語が言語として知覚可能であるのは脳の高次機能である認知・思考・意志・感情といった心の働きによってなされるものである。本を読むという時には文字を「文字」として知覚し認識するというプロセスを経ている。

 学習に際して必要なのは本を読み解く力であり、ただ本にこう書いているからこうなのだというように何となく分かった気になってそこで考えるのを止めてしまうのではなく、自分の知らない定義や単語を使っているところがあれば当然調べる必要がある。

 ただ単語を入力するだけで適切と思われるサイトに誘導してくれるインターネットは調べるという行為に見合った働きをしてくれる便利なものではあるが、ウィキペディアに代表される百科事典形式のサイトは有志が趣味もしくは自己の研鑽の為にページが日々更新される。

 こうした前提の下、サイトで閲覧可能となっているものが多い為に注意が必要である。本を読む時に誰が書いた本かを重要視するのと同じようにインターネットを考えてみると、不特定多数のしかも匿名の人物が書いたネット上の情報の信憑性はかくも脆いものであるという自覚なのである。

 調べ方が分かっている人、語彙が豊富であること、そうしていくうちに目にする情報の重要度の違い…といった感じ方に歴然とした差が生じてしまうのも無理はないのである。

 しかし、ネットが便利で最新の情報を得るのに一番最適な道具である事は事実である。その事に留意しつつ注意深く利用していきたいと思う。さまざまな文献を読んでいくうちに自分の中に理解を積み重ねていったという確固たる自信が生じ、ようやっと本を閉じて文章を書くという行為が可能になるのである。文章をすらすら書く事が出来さえすれば良いという訳ではなく、ただ断片的にどんな本を読んでこのような考えに至ったのかではなく、残りの部分は自分で新たに考えてみる必要がある。

 どのような経緯でこの文章を書くに至ったのか、仮定に至った根拠は適切であるか、文章の方針は何か、どのような順序で文章を組み立てれば説得力、もしくは文章としての美しさを表現することが出来るか。文章は筋道が通って居なければならない、そして理解された事が自分の名頭の中で違う表現で再構築出来るよう書いていくうちに色々な単語の意味やその文章におけるある単語の働きの意味、論法の意味が見えてくるようになるのである。ただ目にとまった文章をまる写ししたり、声に出して読む事でもその作者の描いた世界を味わう事が出来るのも事実ではあるが。

それは小説・エッセイ・詩などを愉しむ方法である。特定の意味を持つように有限の数の要素を組み合わさったまとまりとしての文章は、特にある主題に対する考察としての文章について言える事だが、普遍的な概念を想起させるものでなくてはならないし、一定の規則に則った論述方法で示されるべきなのである。

 私が今回、学習課題としたい主なテーマは酒井邦嘉が記した本『言語の脳科学』のp118ページにニュートンの運動の法則に倣った普遍言語の原理となるような言語の法則の例が紹介されている。

 このp119に記された第一法則から第三法則までの『第一法則』「形態素・句・文の階層性は、全ての言語に普遍的に存在する『第二法則』「文を構成する句の順序や、句の中での語順には、一定の文法規則が存在する。

 この規則は、それぞれの言語が持つパラメーターによって決められる。」『第三法則』「人間の脳は、有限個の言語データを入力としてその言語が持つパラメーターを決定する為の、言語獲得装置を備えている」について特に焦点を当てて考えていきたいと思っている。

 p26のチョムスキーの言葉である「ヒトは多様な言語を持っているが、その元には共通の普遍文法がある。そしてヒトだけが言語を持つのは、動物にはない普遍文法があるからだ」としている。つまり動物にはヒトに見られるような普遍文法のコミュニケーションを持つものは存在しないとも取れる発言である。

 ミツバチの8の字ダンスが自然言語と同じ体系に含めてしまう事はあまりにも無神経な分類であると考えた為である。

 ヒトが他の動物よりも秀でているという事を述べたいのではなくあくまでもヒトの言語獲得過程にのみ焦点を置いてチョムスキーはその謎を解明したいのだと私は思っている。

 言葉を発する事で感情を表現することは出来るが紙面に感情をそのままそっくり記録することは出来ない。それこそ書くという行為に於ける人間の妙というべきものである。何故ならヒトは記録された情報を手掛かりに作者の何らかの感情を推測する事が出来る。時に作者の意図を離れて違う解釈もする事が出来る。

 無限の解釈を生むような作品を人は名著と呼ぶのだろう。無限の解釈を元に人は集い時に議論を交わす事もある。だからこそ言葉は面白く、そして扱うに厄介な代物であると私は思うのである。

YOU ARE HERE

あなたはここに居て 静寂に耳を澄ましている 

突如はしるノイズ そう、ここは戦場だった

Suddenly fuzzy dim flash

冷たく暗い、コンクリートの下 押し固められて

 

「私の声は届いてますか」

 

また鳴り響くノイズ いつの間にかに消え失せ

音のない咆哮となって鳴り響く

 

「それはエピゴノスの咆哮」

 

調音からはじめよう それは魔法の言葉 A440

澄んだ音に耳を澄ませば 自分の心も透き通っていく

hollw vacant empty

悲しみが満ちた時 やがて一筋の涙を流す

流したぶんだけ、心が新しくなって

そうして、私はまた歩き出す。

庭好きの戯言(昔のまま)

I think that One's garden reflects the thinking of nature .
Now I introduce about Three types of the garden .
and I try to mention the beauty of each .

English Garden is popular amang Japanese peple . 
Arrenging the many plants without being unnaturalness.
In english garden, 
People make it hard for a burglar to figure out the  lines between plants
and try to make ornament as if it had  existed for long years .
The wall is coverd with climbing plants. 
And it is frequently cheked to avoid being '' unkempt garden''
''It seemed to be natural '' is important .
So I think that English garden is   ''calculated beauty''
I think it reflects that 'The nature is need to controled by humanbeings
and  nature needs to be under the human's aegis .

French Garden is often used palace or castle.
Triming the branches with scissors to form the fine shape of the tree.
Trees are arrenged to symmetrical position.  
Sometimes trees are trimmed out the shape of maze and flowers are arrenged by color .
All plants are ''parts'' of making one garden.
So I think that French garden is ''external beauty''
I thnk it that reflects that The nature is humanbeings  possession
To make it as we like . Absolutize administration and not arrowing any side drop.
It leads to showing the public influence.
So it is often used  some authoritative bulidings.

 
Japanese rock garden typically seen in Zen temples. 
They use mainly stones and sand to represent nature. 
It shows the flow of the river by using sands.
Stream is momentary and  we can't get It's momentary. 
By replacing rever by sands enables to create the momentary of  stream visually
So I think that Japanese rock Garden is The beauty of keep in the time.
I think it reflects that nature is changing . 
we look the nature only a moment . 
It is hard to percive the true order. No truth  exist but  steream exist. 

Obviously it is impossible to clear up the Each defferense of styles.
There is a many types of Garden and tied with many elements .
I think that Thinking in a different way is  important! 
That's all 

ポートフォリオ

私と哲学

 

私は哲学が好きだ

哲学というのは、確かな答えなんてない、なんてことのない日常の中に潜んでいる、物差しのようなものだ。

物差しの間隔は一定なのだが、その間隔を一定に保ったまま、伸び縮みするようなそんな代物だ。

プラスチック製の物差し、きりりと黒い線がアクセントになっててかっこいい。だがしかし、学用品として重宝されるその物差しは、あっちこっちでびゅーんと、机の上を飛んでいく。傷だらけのその姿は、目一杯遊んだ証。勲章もんだ。

竹の物差しは、よくしなる。ソーイングのときに沿うように作られてるんだっけ?

幾重にも重なるステッチ用のペンシルの軌跡。

それはまるで奇跡みたいな、創意工夫の証。

アルミの物差しはどこか冷たい。図面を描くのに引っ張りだこ。多少の傷じゃあびくともしない、堅牢な作りをしているで候。

素材に限らず、精緻に刻まれた目盛りそのものが、物差しの良さなのである。

私はそういう物差しになりたい。

ひとびとをお決まりの尺度で斟酌するのではなく、物の在りようを矯めつ眇めつする、そんな物差しを

 

 

京アニ事件の被害者遺族に思いを馳せつつ

人が人を殺す理由として、最も値しない

そう作り手としての矜持を削ぐような悪業で心身ともに疲弊してしまった人たちへ

言葉は借り物である。

仮に、気の利いたフレーズは偉人の過去の発言を知っていればいるほど面白さが増すし、話のストーリー仕立ては起承転結、そう筋立てはシンプルだが

起承転結の点を、転にするには相当の力量が必要となる。古典を理解して本歌取りすることもそれはそれで面白い。

だが、浅はかな人たちは意を異にしている。

めちゃくちゃかっこいいフレーズを自分で言ったことにすれば格好がつく。

カッコウの巣なんてもんは存在しない、間借りしてるだけの紛い物。そうやってかき集めた戦利品は本当に格好良いものなのかは甚だ疑問である。

人の優しさに今まで触れて来なかったと言った亜の人の言葉

それは負うべき社会の責任なんだろうか?

否、それは最後の最期まで、頑なに人の心や言葉に真摯に触れて来ようとしなかった餓鬼の戯言である。

見てきた環境が違い過ぎる。

それだけは胸に留めて置くべきだが、理解の範疇を越えている。

だからこそ

故人が遺した素晴らしい作品に心震わせたあの日々を。

また、再開させよう。

物故人はモノではなく、人なのだから。

 

虚飾に塗れた家族史のなれの果て

内田英治 「マッチング」によせて(角川ホラー文庫)

マッチングアプリのプロフィール写真、写し出される世界は虚飾の自分史である。

この「マッチング」という作品は、見てもらいたい自分を見て欲しいように切り取り線を書き出し、ていのいい加工をし、そうして完成した理想の自分像をSNSにアップロードする。そういう行為が当たり前になってきたこの世情に対する警鐘である。

理想の自分像に目が眩むあまり、実像とあまりにもかけ離れた虚像の自分を愛することが出来ず、それを恋愛下手と自嘲気味に語る主人公の輪花は、より自己を客観視出来ているように感じられる。

それは一番幸せだった頃の家族のあるべき姿を胸に秘め、それに反してしまうような、所謂軽薄な出会いとして退けるような心の持ちように繋がっているように感じた。

永山吐夢は、自己と他者の境界が酷く曖昧な人間であり、'刺激'を求めて他者と関わろうとし続ける。

その在りようはもはや人間と呼べる代物ではないのかもしれない。

影山は他者の中に自己と同じ仄暗い感情があるかどうかを試し、期待通りの反応を返すことで悦楽を得ていた。影山は最後まで人間だった。だが、その罪はただしく罪として裁かれるべきであった。

最後に、この「マッチング」で家族の在り方について問うてみたいと思う。

信頼とは、言葉上のものではなく、また、関係とは制度上のものではないと私は考える。

そう、この世に愛も情なんて、存在しないのである。

辿ってきた軌跡に思いを馳せ、そうして紡いできた意図の糸に撚って、寄せるべき言葉を贈る。

そうして織られた物が、真実となる。

そんな物を決して踏み潰すことなんて、できはしないだろうな、人間だったら。