多感作用、誰が為に共感はあるのか?

とりとめのない日記のようなもの

2013年5月回顧録(一部改変、「春によせて」)

 道端に咲いている花に気付き、思わず足を止めじっと観察してみる。

 どうやらタンポポのようだ。アスファルトから覘くその姿はどこか可憐でいても力強い息吹を確かに感じさせる。ふと、昔テレビなどでよく耳にしていた「アスファルトに咲く花のように」という旋律が歌詞に乗せて頭の中で音楽となって鳴り響く、そしてふとある事を思い出してノートの端くれに覚書として留めていた言葉に目をやる「散って末枯れたタンポポの瓦のすきにだあまって、春の来るまで隠れてる、強いその根は目に見えぬ」という金子みすゞの詩を眺めながら、ああ、暗がりに隠れていたそのタンポポは春の訪れをじっと静かに待っていたのだ、そうだ、春が来たのだと思うに至るのである。

 季節は望む望まないに関係なく時が過ぎればやがてやって来るものではあるが、冬から春への移り変わりは、特に切り替わりや節目といった、時間の流れとは異なる切れ目を実感するのである。そうしていくうちにふと喪った年月を思う、やがて来るこれからのことに期待を膨らませる、何せ季節は春である。芽吹く季節、陽光に照らされた蕾がいまかいまかと花開く時を待っている、そんな時期なのである。心踊らずにはいられない。

 本を読むという行為もそれ似ているように思う。とある本が目にとまりそして手に取る、ページを開けば言葉が並んでいる。読んでいくうちに作者が語りかけてくるのである、その時代、その時の情景に神経を研ぎ澄ませて、作者は何を考えてこの文章を書くに至ったのだろうか、

「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」

 じっと目を瞑ってしばらくの間思案する。詩は短いながらも言葉のそれ自体がもつ神秘性、生じた奥深さを昇華させたものであり言葉の意味や音韻の繋がりや意味の重なり、対比などを味わう事が出来る。私が思うにこの詩は目で知覚することの出来ないものに対するある種の畏怖と憧れが綯い交ぜになって、そうしてようやく見えぬものでも確かに存在するものはあるのだという実感と愛情にも似た感情を覚えるのだ。

 そして私はそれらの物に対する興味は尽きないとも思うのである。それは空を仰いでようやっと見える星でも、道端に咲くタンポポでも同じなのである。たった十数行の言葉でこのことに気付かせてくれる、それが詩の力である。言葉には空間の隔たりを越える力がある。見えないものでも言葉にして「見え」てしまう「感じ」取ることを可能にしてしまう。

 例えば漫画における擬音の表現というのあげられる。またある物とある物を対比させる事によって存在しない筈の空間的な(意味的ともいえる)隔たりを生じさせることもできるのである。

 例えば、階級という概念はある人とある人を空間的に完全に分離させてしまい、また階級と言う概念が作る言葉によって分類され、時に対比する事が可能になるのである。

 さて、本を読むという事はその言語を理解していることが必要である事は言うまでもない。ただ理解して読むということを考えた時にそれが通用しない本がある。意味を味わうことで自分の知識の血肉となるもの、それこそ自分が取り組まなくてはならない本である

つまりは、より一層の精読が必要となる本である。言語が言語として知覚可能であるのは脳の高次機能である認知・思考・意志・感情といった心の働きによってなされるものである。本を読むという時には文字を「文字」として知覚し認識するというプロセスを経ている。

 学習に際して必要なのは本を読み解く力であり、ただ本にこう書いているからこうなのだというように何となく分かった気になってそこで考えるのを止めてしまうのではなく、自分の知らない定義や単語を使っているところがあれば当然調べる必要がある。

 ただ単語を入力するだけで適切と思われるサイトに誘導してくれるインターネットは調べるという行為に見合った働きをしてくれる便利なものではあるが、ウィキペディアに代表される百科事典形式のサイトは有志が趣味もしくは自己の研鑽の為にページが日々更新される。

 こうした前提の下、サイトで閲覧可能となっているものが多い為に注意が必要である。本を読む時に誰が書いた本かを重要視するのと同じようにインターネットを考えてみると、不特定多数のしかも匿名の人物が書いたネット上の情報の信憑性はかくも脆いものであるという自覚なのである。

 調べ方が分かっている人、語彙が豊富であること、そうしていくうちに目にする情報の重要度の違い…といった感じ方に歴然とした差が生じてしまうのも無理はないのである。

 しかし、ネットが便利で最新の情報を得るのに一番最適な道具である事は事実である。その事に留意しつつ注意深く利用していきたいと思う。さまざまな文献を読んでいくうちに自分の中に理解を積み重ねていったという確固たる自信が生じ、ようやっと本を閉じて文章を書くという行為が可能になるのである。文章をすらすら書く事が出来さえすれば良いという訳ではなく、ただ断片的にどんな本を読んでこのような考えに至ったのかではなく、残りの部分は自分で新たに考えてみる必要がある。

 どのような経緯でこの文章を書くに至ったのか、仮定に至った根拠は適切であるか、文章の方針は何か、どのような順序で文章を組み立てれば説得力、もしくは文章としての美しさを表現することが出来るか。文章は筋道が通って居なければならない、そして理解された事が自分の名頭の中で違う表現で再構築出来るよう書いていくうちに色々な単語の意味やその文章におけるある単語の働きの意味、論法の意味が見えてくるようになるのである。ただ目にとまった文章をまる写ししたり、声に出して読む事でもその作者の描いた世界を味わう事が出来るのも事実ではあるが。

それは小説・エッセイ・詩などを愉しむ方法である。特定の意味を持つように有限の数の要素を組み合わさったまとまりとしての文章は、特にある主題に対する考察としての文章について言える事だが、普遍的な概念を想起させるものでなくてはならないし、一定の規則に則った論述方法で示されるべきなのである。

 私が今回、学習課題としたい主なテーマは酒井邦嘉が記した本『言語の脳科学』のp118ページにニュートンの運動の法則に倣った普遍言語の原理となるような言語の法則の例が紹介されている。

 このp119に記された第一法則から第三法則までの『第一法則』「形態素・句・文の階層性は、全ての言語に普遍的に存在する『第二法則』「文を構成する句の順序や、句の中での語順には、一定の文法規則が存在する。

 この規則は、それぞれの言語が持つパラメーターによって決められる。」『第三法則』「人間の脳は、有限個の言語データを入力としてその言語が持つパラメーターを決定する為の、言語獲得装置を備えている」について特に焦点を当てて考えていきたいと思っている。

 p26のチョムスキーの言葉である「ヒトは多様な言語を持っているが、その元には共通の普遍文法がある。そしてヒトだけが言語を持つのは、動物にはない普遍文法があるからだ」としている。つまり動物にはヒトに見られるような普遍文法のコミュニケーションを持つものは存在しないとも取れる発言である。

 ミツバチの8の字ダンスが自然言語と同じ体系に含めてしまう事はあまりにも無神経な分類であると考えた為である。

 ヒトが他の動物よりも秀でているという事を述べたいのではなくあくまでもヒトの言語獲得過程にのみ焦点を置いてチョムスキーはその謎を解明したいのだと私は思っている。

 言葉を発する事で感情を表現することは出来るが紙面に感情をそのままそっくり記録することは出来ない。それこそ書くという行為に於ける人間の妙というべきものである。何故ならヒトは記録された情報を手掛かりに作者の何らかの感情を推測する事が出来る。時に作者の意図を離れて違う解釈もする事が出来る。

 無限の解釈を生むような作品を人は名著と呼ぶのだろう。無限の解釈を元に人は集い時に議論を交わす事もある。だからこそ言葉は面白く、そして扱うに厄介な代物であると私は思うのである。