多感作用、誰が為に共感はあるのか?

とりとめのない日記のようなもの

クィア文学の萌芽(九鬼周造著『時間論』によせて)

輪廻は一般に因果律、すなわち原因と結果の連鎖に支配され、

また輪廻とは

時間概念、無際限の再生、医師の永遠の反復、時間の終わりなき回帰

とある、そして仏教は輪廻の概念において

内的諸相、つまり醸成されていくものが、次の諸相を形成し、来世において「顕現」すると言えるのである。分かりやすく言えば、ある女が、男に生まれ変わるとすれば彼女の内的諸相は男としての在り様であったということである。

業、つまり所行と道徳的応報の観念、の内に同一性の概念が必然的に含まれているとある。業とは同一性を目指し、同一性に帰着するとある。

 深遠な抽象とは、私が考えるに醸成されてできた自我の中のいっとう大事な上澄みであり、それが、私を構成する何かであるということなのだろう。上澄みではあるが、存在としては澱のようなものであり、私を構成する液体の中で、ふわふわとただ存在するのみである。

「液体の中に存在する澱」

つまりは、日々の暮らしの中で、感じずには居られない違和感、余所余所しさ、異邦人にでもなったかのような気分…

集団の中に居るとき、誰かと話をしている時、ふと、一人になった時、私は自分のことをひどく「奇妙な」ものとして捉えることがある。

それが性別違和でないことは確かであるが、確かに自分がこのコミュニティに存在すべきではないという実感を伴った感覚はついぞ消えることは無いだろう。

私は絶えず流浪することを欲し、行き着くべき場所がここではないと思う限りに於いて。