多感作用、誰が為に共感はあるのか?

とりとめのない日記のようなもの

形に嵌るな、若人よ

テーマが決まってしまった
決まってしまったものの、それを形容する言葉はないらしい。
ただ、それに付随する文章が悉く型にはまっているのだ。
知っている人ならば、知っているその文章の形は、真っ新だった「  」のうちにどこか理解を求め、共有され得ないことを拒むかのような
暗い影を落とし込んでいる
多くの人の注目を集めるだけのアイデアが存在していることは確かなのだが、
不定であることを謳いながら周りの反応を窺いつつ型破りであることを誇示する、そんな臆病な自尊心が顔を覗かせているのである。
悩むことは悪いことなのだろうか?
言葉のやりとりのうちに自らの弱さを曝け出すことは、
本当に「負け」なのだろうか?
自らの言葉をもってして言葉を発することが嘲笑となり得るならば、
型にはまることがそれから逃れうる唯一の手段なのだろうか?
ペンを走らす、言葉の端々に自我のうねりが、叫びが存在しないまま、勢いだけが、円滑さだけが、周りから高い評価を得ることだけが目的になってしまっていないか?
周りから高い評価を得る方法だけに長けてしまってはダメなのだ、
そこからは己の本当の間隙を埋める言葉は生まれないのだ、
自由を謳うなら、尚更だ