多感作用、誰が為に共感はあるのか?

とりとめのない日記のようなもの

ちょっとした連想ゲーム

チョコレートが、貴族の好奇心を満たす不思議な飲み物から、
庶民、とりわけ労働者の小腹を満たすお菓子として、姿を変えてくまでの本を読むにつれ、
昔と、今が、どのように、異なるか、変わらない点はあるかを考えるようになった。

搾取される側、する側という構造は変わらないが、
(搾取という言葉だと凶暴過ぎるが、管理という言葉をあてるには、いささか無秩序なのである)
労働者側の、労働意欲というのが僅かばかり変化してきたのではないかと思う。
工場におけるコミュニティというものが確かにあって、皆が同じく写真に収まり表彰しあい、時に談笑し、頬を緩ませる、そんな時代もあったのだと思うが、
現代の工場は、ある種の、コミュニティに属すことを強いられるのを不得手とする人にとって、とても都合のよい仕組みの中で存在していて、理想的なのだった。同一であることを迫りもしないし、
ただ、労働の種類によって各場所に割り当てられるのだ。
ある種の無関心が、ある種の救いを生むのだ。
限られた時間の中で、仕事を滞りなく遂行するのが、当人にとってのアイデンティティなのだと、
またそうであって欲しいと思うのが、私の現在思う、労働意欲のあるべき姿である。ある総体がそこにあるとして、各人が、それぞれ分担するという時に、果たして、これだけ頑張ったけど、出来なかった、は正しいことなのかと思うのである。
未完成品を眺めて、これだけ頑張った、は試行の段階であって、それは当人が努力すべき事項である。未熟だから許される理屈である。

周りに賞賛され、認められる自分ということに重きをおいてきたがために、また、それが自分の主張の正当性の証拠になってしまっているのか、
(人が人を裁く、というのはどうにも難しく、結局は、どれだけ味方を得たかに過ぎず、争うことそのものが、人間の悪性か、いや、善性から義憤を滾らせたに過ぎないと言ってしまえば、当人の振る舞いは果たして正当であると言えるのか?
引きずられた感情から並べたてられる言葉に、何ら意味を見出せもせず、人が人を裁くならば、嘆くこともまた、人が人として行うことの出来る唯一のことである。ただ、言葉の荒々しさに、その人の軌跡を見るだけである。
人を屈服させるためだけの言葉である、嘆くほか、抗う術はないのだった。)

過去の評価をつと眺めたり、ふいに大きな声を張り上げたりなどして、
時に自分が傷を負った、ただそのことだけを、しきりに喚くのが、情報として見る価値のあるものとして持て囃されがちである。
(一際目を引く、とでもいうのだろうか、そういった特異性に陥りがちなのが、またどんな情報を知りたいかよりも、どんな情報を消費したいか、に重きを置かれる、そんな気がするのである)
細く、きれそうな繋がりの中で細々と続ける、その中に抗い難い魅力というものを感じ、また愛好する者にとっては、この消費されるという感覚がどうにも耐えられないのである。
感情に消費される、とでも言えばよいのだろうか、
そういったものは、時に商売感覚とも結びつくのかもしれない。
監視されること、注目されること、それ自体が商材なのである。
どうしても、株に馴染めない人間なので、この際言ってしまうが、商品の価値、企業としての信頼が揺らぐとか言いながらも、実際、その価値の揺らぎの中に利益を見出しているのが、株の実態なのではないかと思うのだった。
流れに取り残された、また読み違えた人を時に奈落の底に突き落とすのである。
ゆえに、恐ろしいものだと、
物を作ることに集中したいとしても、今の時代、それ以外のことを考えなくてはいけないのだ、
嘘を並べたてなければ、いけない
少しでも注目されなければいけない、そしてそれは時に、良い物を作りたいという気持ちを削いでしまうのだ。
既存の価値を蔑ろにするような、世迷い言に過ぎないが、
価値というもの、それ自体に思いを馳せただけのことだ、
同値の野蛮さを、同値のものに割り当てただけなのだ。

未開であったり、成長の余地がありそうで、また巨額の富を得られそうな、よく言えば、既存のデスクワークよりも、もっと手軽な方法でというのが肝要で、
(しかし、アイデアを生み出すこと、そのものがお手軽に行えてしまうものとは到底思えないのだが…)
何かを真似さえすれば、なぞりさえすれば、そういった類のものは、ほんの少しの焼きつけを残して電子の海に泡沫のごとく消えゆくのだろうと、
そう思うに至った次第である。
いやむしろ、これは願いなのかもしれない。
感情を書き留めよう、いっさいの論理を消化し、自らの腹の内に収めよう